昭和・平成・令和 極め湯三代目物語(後篇)

2019年04月30日 22:22

前篇はこちら

後でいろいろ直します。

※【● は、後で削除するかもしれない印。
《・・・》は、傍点の印



冨川《とみかわ》冨士夫《ふじお》が、浅黒い肌に付いた水滴をタオルで拭きながら立っていた。八十一歳という年齢なりに髪はほぼ白く、皮膚のたるみはあるものの、いまだ頑強な体からは、うっすらと湯気を立ち昇らせている。
 亡くなった極の祖父と親しく付き合っていたことから、小さい頃から「キワメちゃん」と極を孫のように呼ぶ。
「あっ、冨士夫さん、どうも」
 手を止めて、極も気安くあいさつを返す。
「もうすっかり立派な三代目だなぁ」
 本当の孫の成長を見るかのように、体を拭き終えた冨川は目を細める。
「……あ」
 思わず口元が緩み、『そうっすか?』と口に出してしまいそうになる。
「とんでもないっす」
 形だけ首を横に振り、『平成も今日で終わりっすね』と、何度となく客と交わした会話《ネタ》をしようと、口を開きかけた寸前、風呂道具を常連客用の棚に置いた冨川は、
「ところでキワメちゃん、さっき大変だったらしいねえ」
 脱衣かごから出した褌を締めながらさらりと口にした。
「え……」
 目が泳いだのが、自分でもわかる。先程男湯で騒動を引き起こした外国人が帰ってから、五分も経っていない。
「……あ」
 ありえねー、と思わず言ってしまいそうになり、すかさず極は口をつぐむ。
「大変って……」
 何のことすか、と返すのも、いかにも白々しい。とりあえず戸惑った表情を作り、ステテコを穿いた冨川に向けてみる。
 冨川はとぼけた表情で、
「ほれ、キワメちゃん、ガイジンさんの前で素っ裸になったんだろ」
「ちょ……言い方!!」
 つい大きくなってしまった声に、他の客たちの視線を感じる。テレビの画面では、「ちょ、待てよ!」との言葉が飛び出し、スタジオで大爆笑が巻き起こっていた。
(このタイミングで……っ)
 熱くなった顔を見られないように、極は他の客にお辞儀形式で頭を下げる。そして、誰にも聞こえないほどの小さな溜息をついてから、
「それ、誰から……」
「さて、誰だろうなぁ」
 この世代にしかできない絶妙なはぐらかし加減で、薄いベージュの作務衣を上下《じょうげ》着終えた冨川は首をひねる。
「ま、次来た時までには思い出しておくわ」
「あぁ……はい」
 とぼけているのか、それとも本当に忘れているのか。判別に迷っている間に、冨川は「じゃあな」と右手を上げると、脱衣所を後にした。
 三十分ほど前――。
 番台に座っていた極の元に、骨ばった体をまともに拭かず、水滴をぽたぽた垂らしながら、腰にタオルを巻いただけの老人の客が、男湯から駆け出してきた。
「ど、どうしたんですか」
 思わず立ち上がった極に、老人は、はげ上がった頭から湯気を出すほどの勢いで、
「いいからちょっと来てくれよっ」
 と、何度も男湯を指差す。
 とにかく老人に続いて男湯に入ると、中南米系と思われる、彫りの深い顔の褐色の肌をした外国人の青年が番台で購入したタオルと石鹸を手に、浴室のガラス戸の前で、きょとんとした顔で立っていた。完全に裸ではなく、赤い布地に墨を流したようなローライズのボクサーパンツを穿いた彼の姿を見て、極は状況を一瞬で理解する。
「すみません、お風呂に入るときには、全部脱いでいただけますか」
 しかし、極のお願いにも、外国人は怪訝な顔のままだ。番台の前に現れた時は、片言ながらも日本語を話していたのだが、やはり日常会話はまだ無理のようだ。 
「あー、あー、……ルックディス」
 壁に貼られた、外国人向けに四か国語で入浴マナーが描かれたポスターを見せる。
「ユーニードトァビーネイクドビフォーエンターリングザバス」
 こんな時のために覚えておいた、「風呂に入る前に服を脱いで」のフレーズを伝える。
 しかし、英語が通じないのか、それとも極の発音が悪いのか、ひげを蓄えた彫りの深い顔からまだ戸惑いが消え去っていない。
「あー、あー……」
 言葉に詰まり、固まった末に、極はシャツとジャージズボンを脱ぎ捨てた。他の客の視線を気にしている余裕はない。
「ミートゥ、ミートゥ」
 人差し指で自分の体を指し、そして、最後の黒いボクサーブリーフをゆっくりと下ろす。
「プリーズ、テ、テイクオフ」
 【● まるで男のストリッパーになったようで、。》
 生まれたままの姿になった極を見て、外国人の男は、裸で成り行きを見守っている他の客たちも見回すと、オオ、と外国人は合点したようにうなずき、
「ゴメンナサイ」
 と、下着を下ろした。
 この騒動が、暇を持て余した老人《きゃく》たちの格好の話題になることは極も覚悟していたが、冨川が姿を現したのは、外国人が帰った数分後だ。
(マジ早すぎるって……)
 冨川が去った後も、男湯の出入口をぽかんとして見つめていた極は、数秒後はっと我に返る。ちらりと他の客を見ると、みな含み笑いを浮かべて極の反応を伺っている――ように見えた。
 すかさず極は下を向いて、「仕事中」オーラをこれ見よがしに振りまきながら、床掃除を再開した。

 極め湯 @kiwameyu 4月30日
『本日22時で平成最後の営業を終了いたしました。明日も通常通り、15時からの営業を予定しております。昭和・平成と変わらぬご愛顧を、令和に入ってもどうぞよろしくお願いいたします。
なお、風呂を沸かすための薪・木材を提供してくださる方、量にかかわらず、個人でも業者の方でも随時募集中です!!』
 今日最後のつぶやきをして、アプリの送信ボタンを押し、極はスマートフォンをズボンのポケットにしまった。
 最低限の明かりだけ残し、薄暗くなった極め湯の店内に客の姿はすでになく、脱衣所のテレビだけが絶え間なくしゃべり続けている。
 平成の歴史を振り返るコーナー、ガングロギャルが集団でパラパラを踊っていた。
 何一つ興味のない内容に、テレビを消そうかと、大鏡近くのリモコンに近寄ろうとしたが、
(今日ぐらいは点けておくか……)
 と思い直し、シャツとジャージズボンを脱ぎ、下着一枚になる。
 ふと、大鏡に映った自分の体が目に入った。
 上半身の、特に肩から肘にかけてがっしりと付いた筋肉に比べ、下半身の太腿から下はやや細い。そのアンバランスさに、つい舌打ちが出る。
「下半身だけ鍛えるジムってねえかな」
 ま、行く時間ねえけど、と一人で突っ込みを入れ、
「さ、平成最後の掃除すっか」
 と、ボクサーパンツを下ろしかけた時、玄関の方から、
「……せっかく来たんだからさ、入ってきなよっ」
 と、母が誰かを引き留めている声がした。
「ん?」
 半分下ろした下着にかけた手を止めて、出入口を見ると、すっと開いたドアから、丸顔に白髪交じりの母親が、ぬっと顔を出した。
「おぁぁぁぁぁ……てっ!!」
 瞬速で下着を引き上げた際、体の一部分《・・・・・》がゴムと強くこすれ合い、思わず●カンフー映画のような声が出てしまった。
「なになになにっ」
 いくら母親とは言え、さすがに「不意打ち」はないだろう。極が不平を口に出す前に、
「あんたもうお風呂入ったのかいっ」
「いや、これからだけど」
 それがどうしたんだ、と続ける前に、母は顔を引っ込めた。そして、ほらほらほら、と急《せ》かすような母の声に、いやいやいや、と申し訳なさそうに答える野太い男の声がした。特徴的なだみ《・・》のかかった声にはっとして、極はパンツをもう一度引き上げると、カウンターに走った。
 ドアを開けてすぐに、風呂道具を抱えた常連客、安岡大吾を、母が強く引き留めている姿が目に飛び込んでくる。仕事帰りでそのまま来たのか、「安岡酒店」と書かれた、色の褪めた前掛けを二メートル近いずんぐりとした巨躯に付けたままだ。
「どうしたんすか、ダイゴさん」
 相変わらずの無精ひげを生やした四角い顔を極に向けたとたん、安岡の顔がみるみる赤らむ。安岡が黙っている間に、
「いや、大ちゃんがね、今しがた来たんだけど、うちの銭湯《ふろ》に入んないでこのまま帰っちまうって言うんだよ」
「いやいや、おばちゃんもキワメも気にせんでくれ。明日また来させてもらうから」
 なっ、なっと、母と極に両手を合わせて、安岡はじりじりと玄関に後ずさりしようとした。
 極個人としてはそれでも構わないが、極め湯の店主としては、
 はいそうですかというわけにもいかないだろう
常連客に対する正しい対応とは言えないだろう
そうもいかない。
「ちょうど俺もこれから風呂に入ろうと思ってたし、良かったらダイゴさんさん一緒に入りません?」
 安岡は一瞬言葉に詰まり、妙に困惑した様子で極の体を上から下までじろじろと眺めてから、はっとして咳払いをしたあと、
「……いやいやいやいや」
 思い直したように目を何回かしばたたかせ、視線をさまよわせながら、先程よりも明らかに小さな声で、小刻みに首を横に振った。
 それをまた母が引き留めるというやり取りが延々と続き、数分後、
 極に続いて、安岡は男湯ののれんをくぐった。
「ちょ、ちょっとだけだからなっ、パッと入ってジャッと流して、サッと出るだけだからなっ」
 安岡が言い訳のごとくしきりに繰り返している間に、極は壁沿いのスイッチを押した。テレビ音声が流れるなか照明が点き、薄暗かった脱衣所はふたたび営業用の顔となる。
 今でこそ
時々公私ともに相談に乗ってもらうほど信頼を置いている安岡だが、高校時代には手の付けられない“武闘派”だった、らしい。
 当時、この銭湯の二代目の父親が番台から、安岡と、その友人玉川金次郎をよく怒鳴りつけ、安岡も負けじと噛みつかんばかりに「うるせえハゲジジイ」とやり返していた記憶が、幼稚園児だった極の脳裏にうっすらと残っている。
 のちにそれぞれが家業を継ぐ立場となり、町内会の集まりで、たがいに顔を合わせた時、冨川など、昔の安岡を知っている人物からその話題が出ると、
『あれは若気の至りだった……』
 と、大きな体を縮みこませて、ひたすら周りに恐縮する。
 今では、誰に対してもお節介なほど親切な“好中年”になり、家業を継ぐことを一度は拒否したこと、父親との関係が一時期うまくいかなかったことが共通し、極にとっては、色々な意味で大きな《・・・》頼れる兄貴といったポジションにいる。
 常連客用の風呂道具置きの棚の隅に置いてある、自分のそれを手に取り、極は安岡の近くに戻ると、
「じゃ、入っちゃいますか」
 と、パンツをするりと下ろそうとしたが、安岡がなぜか自分の風呂道具を手にしたまま、じっとこちらを見ていることに気づき、
「……なにか」
 手を止めて振り返った。安岡は、まるで悪事を見つけられ
たかのようにうろたえつつ、「い、いや、あの、その……」と指示代名詞を繰り返した挙句、
「だから、その、ロッカーが……」
 強面でむさ苦しい顔に汗を浮かべた安岡が、右手の太い人差し指を、極の背後に向けてそろそろと突き出した。つられて極が振り返ると、脱衣ロッカーの戸を一つ残らず開けっ放しにしたままだった。
「えーと、これは……」
 今度は極が言葉に詰まる。
「……風呂に入る前に掃除するつもりだったのか?」
「まあ、ちゃちゃっと……やっちゃおうかな、って」
 凄みのある目付きに睨まれ――本人には別にそんなつもりはないのだろうが――、極はあっけなく白状した。やはり、幼少時の“トラウマ”はまだ完全に消え去っていないらしい。
 それはさておき、安岡の性格からして、おそらく掃除を手伝ってやろうと言い出すのはほぼ間違いないが、いちおう『大丈夫っすよ』と言おうと、「だ……」と言い掛けた時、
『キャーッ!』
 突然、脱衣所に女の叫び声が響き渡った。極と安岡はギョッとして顔を見合わせてから、声の出所を探す。
『平成二十三年三月十一日、私たちはこれまで経験したことのない、未曽有の大災害を目の当りにしました』
 すぐあとに流れる落ち着いた男の声に、二人の目は頭上のテレビに吸い寄せられる。
 画面の中では、真っ黒な津波に土台ごと崩された何軒もの家々が、車やガレキとともに海に流されていく、「あの日」以来、何度も見た映像が映し出されていた。
 極は口を閉じるのも忘れ、数秒画面に目がくぎ付けになった。
(あっ)
 安岡に答えるのを忘れていた。
「だ、大丈夫っす」
 笑顔を作ってよいものか迷いながら、安岡に振り向く。しかし、安岡からの返答はなく、
先程までの明るさが嘘のように、顔をこわばらせていた。
 確かに、あの大震災は人々の心に大きな傷を残し、極自身の運命も大きく変えた。しかし、八年経って、いまだにここまでの反応をするのは珍しい。初めて見る表情だ。
「あ、あの」
 極の呼びかけに、安岡は我を取り戻したように、食い入るように見つめていた画面から目を離し、
「お、おう、なんだっ」
 明らかに作り笑いとわかる表情で答える。
「風呂、入っちゃいましょ」
 安岡はうむとつぶやき、しばらく考えてから、
「……そうだな」
 つぶやくように答えた。
「そ、そうっすね」
 てっきり掃除の手伝いを申し出てくれると思っていたので、多少拍子抜けしたものの、それは表情に出さずに、ロッカーの隣に積み上がっている籐の脱衣カゴを二個取り出し、安岡に渡した。
「どうぞ」
「あ……すまんな」
 まだぎこちない表情で安岡はカゴを受け取ると、風呂道具とタオルを入れたバスケットを床に置き、前掛けを外してカゴに入れた。
 その間に極もあらためてパンツを下ろし、裸のまま安岡を待とうかとも思ったが、
(急《せ》かせるし、間が持たねえしな)
 と考え直し、お先っす、と振り返るとそこには、
「じゃ、入るか」
 安岡が、野生動物のように毛深い体をすべて晒して立っていた。
「……えっ」
 服はすべてかごに収められている。安岡から目を逸らしてから、十数秒しか経っていないはずだ。
「いつ脱いだんすか……」
 顔以外の場所《・・・・・・》にも、引き寄せられそうになる目を丸くした極に、安岡は、へへ、と、悪戯盛りのガキ大将のような笑みを浮かべて笑う。
「もう少し早く来れたら、俺がキワメの代わりに、『その外国人』に風呂の入り方教えてやれたんだけどなっ」
「……はぁ」
 やはり、下町のネットワークは侮《あなど》れない。

「悪かったな」
「えっ」
 極が頭からシャワーを浴びていた時、隣で湯を浴びていた安岡が、独り言のようにぼそりと口にした。
「いつもはもうちょっと早く仕事が終わるんだが、今日はなぜだか酒の配達の注文が殺到してな。こんな時間になっちまった」
「今日で平成が終わりだから、それと関係があるんじゃないすかね」
 だな、と相槌《あいづち》を打つ安岡の声に交じって、シャワーの水音がした。何気なく極が安岡に振り向くと、
「……えっ」
 頭から足先まで付いた石鹸の泡を流しているところだった。安岡から目を逸らしてから、十数秒しか経っていないはずだ。 
 安岡はシャワーの蛇口を締めると、
「さて、入らせてもらうとするか」
「あ、じゃあ俺も……」
 あわてて極も湯を止めてから、目にかかった髪の毛を手で払い、立ち上がった安岡を軽く見上げる。すると――
(おぉぉぉ……っ)
 ちょうど目の高さに、年齢なりに突き出た安岡の腹があり、その下の、遠近法を完全に無視して、だらーーーりとぶら下がっている巨大なもの《・・》を直視してしまった。
 仕事柄、様々な男のそれ《・・》を目にすることは、決して少なくないが、安岡の場合、男としての自信を奪い取るには充分な、まさに特Aランクの凶器と呼べるシロモノである。ちなみに極自身は、Bの上――といったところだろうか。あくまで自己評価だが。
「ん?」
 安岡のいぶかしげな声に、はっとして極は顔を上げた。目が合った安岡は、にやりと笑い、
「ガハハ……どうだ、恐れ入ったか」
 どっしりとした腰に両手を当て、心なしかそこを突き出し気味に胸を張る。
 四十過ぎの男《おっさん》とは思えぬ悪乗りに、極は顔が強ばり、頭がくらくらするのを感じていた。
 ともあれ、二人は同じジェットバスに肩を並べて浸かった。
「くぅぅぅぅぅっ」
 湯船に入った途端、安岡は万歳をするように、両の拳を天井に突き上げてから、武骨な顔を心地よさそうに弛緩させた。
(……変わってねえな、ダイゴさん)
 昔のまま、態度で感情を表す安岡を間近で見て、極の心も、懐かしさで満たされていく。
「こうやってダイゴさんと一緒に入るのって……何年振りっすかね」
 うむ、と安岡は太い首をひねり、
「俺も店の仕事をするようになってから、前みてえにしょっちゅうは来れなくなっちまったからな」
「高校出るまでは、金次郎さんとよく来てなかったっすか。そんで、風呂ではしゃぎすぎて、俺の親父によくキレられてた気が……」
 極の指摘に、「あ、あれはだなっ」と安岡は急に渋い顔になり、
「俺が入ってる時に、金次郎が勝手にやってきて、ちょっかい出すもんだから、俺も、つい、な」
 大きく四角い顔の太眉を八の字にして、きまり悪げな表情を見せる。
「で、最後に俺がキワメの、はだ……姿をここで見たのは、俺が大学出たあたりだったから、キワメが中学に入ったぐらいか?」
「……そんな感じっすかね」
 微妙な間が開いて、極が答える。
 昭和三十年代、祖父が開業した「極め湯」は、昭和六十三年に父親が引き継ぎ、その翌年、すなわち平成元年に極が生まれた。この名前からも明白なように、生まれながらにして、銭湯の三代目を期待されていた極だったが、昔から、実家が銭湯であることを他人に知られるのが嫌だった。
 当時の番台は、男湯と女湯が見渡せる間仕切り付近にあり、そこにどっかりとだるまのように座っている父親を助平扱いする男の級友たちも少なくはなかった。名前が名前なだけに、極め湯との関係を彼らにしつこく聞かれたものの、知らない関係ないの一点張りで押し通した。
 だが、その「スケベオヤジ」が、番台を担当する母親の代わりに、小学校の参観日に姿を現した時のいたたまれなさは、今でもはっきりと覚えている。
 その夜、極は、あれほど来るなと言ったのになぜ来たのか、と父親に食って掛かったものの、「風呂屋のどこが悪《わり》ぃんだ!」と一蹴された。家族の中で極に味方する者はいなかった。
 それ以来極は、自宅の銭湯には入らず、小遣いを使って、わざわざ別の銭湯に行くようになった。もちろん、それを家族、特に父親が面白く思うはずもなく――。
「中学から俺、親戚の叔父さんとこに世話になったんで」
「……そうか」
 安岡は、それだけ言って、黙った。
 母方の叔父は、有名商社に勤めるサラリーマンで、麻布の家に極が家出同然に押し掛けた時にも、極の言い分――このままだと自分の将来は銭湯の番頭しかないこと――を聞いてくれた。その後、父親とどういう話し合いがもたれたのかは不明だが、叔父の家に子供がなかったことも影響したのか、とにかくそこから中学・高校に通い続けることが認められた。大学進学後は学生寮に入り、卒業後は社員寮かアパートを借りるつもりだった。
 もちろん、実家に帰るつもりは一切なかった。
 安岡は、ふと神妙な面持ちになると、
「ところで、おやっさんの具合はどうだ」
「まだ、ちょっと……」
 そうか、と安岡はうなずき、
「俺が言うのもなんだが……昔いろいろあったとしても、オヤジはオヤジだしなぁ」
 そこで、安岡は言葉を終え、汗で濡れた顔を大きな手で拭った。
『だから親孝行しろよ』と続くのかと、極は安岡の言葉を待ったが、安岡は黙ったまま、広い背中に当たるジェットバスの水流を楽しむように、目を細めている。
「俺もキワメも、あれだけなりたくねぇっつってた家業を継ぐとは、人生わからんもんだな」
 ふと、独り言のように安岡はつぶやいた。
「……そうっすね」
 心からの同感を込めて、極もうなずいた。
 父親との断絶が続いたまま、大学四年を迎えた極は、区役所の職員採用試験を受験し、合格した。
 さすがにそれを報告しないわけにもいかず、正月に一度実家に帰ったものの、銭湯の改修工事と重なり、父親はろくに極と会おうともしなかった。工事を一切知らされていなかったことにも腹立たしさを感じたが、もはや、後継ぎではない自分がどうこう言うのは筋違いなのだろう。
 ただ、どこか、心の中にぽっかりと穴が開いたような虚しさが残った。
 そして、大学卒業をほぼ十日後に迎えた、平成二十三年三月十一日――。
 この日からしばらくの出来事は、断片的にしか極の記憶に残っていない。
 寮の部屋の片づけをしていた最中、カタカタとどこからか物音がした直後、部屋全体が大きく揺れ始めた。窓がきしみ、棚から本やDVDが次々と床に落ちていく。数十秒で治まるだろうと思われた揺れは、数分経っても止むどころか、さらに激しくなった。
 やっと揺れが小さくなり、極は事態を把握できないまま、すぐに廊下に走り出た。
 不安な表情で寮生が集まってきた談話室のテレビでは、テレビ局の付近のビルから立ち上る黒煙の映像を映し出し、ベテランの女のアナウンサーが「身の安全を確保してください!」と必死に叫んでいた。
 数人の寮生が、こわばった表情でスマホを操作したり、耳に当てているのを見て、極も一度部屋に戻り、バッグから取り出したスマホで家に電話をしたが、何回掛け直してもつながらない。
 とりあえず財布とスマホを持ち、最寄りの駅に向かったものの、すでに電車は全線運転見合わせとなっていた。人がぞろぞろと集まり始めている中、駅員を探して再開予定を訊いても、詳しいことはまだ何とも言えないとだけしか答えない。
 駅を出て辺りを見回しても、車は渋滞し、バス停には長蛇の列が並んでいる。
 人々は群れを成すように歩道を歩いていく。考える前に、極も徒歩で遊織方面に向かった。
地図アプリで極め湯までの距離を測ると、二十三キロ程度、時間にして六時間弱とある。
(マジかよ……)
 日が暮れて、普段は歩いたことのない道、橋の上、線路沿いをひたすら歩き続ける。二、三十分置きに自宅に電話を掛けてみるが、相変わらず「話し中」の通知音しか返答がない。時折途中の駅に近寄ってみるものの、疲れ切った顔の乗客たちが大勢床に座り込んでいる姿を見て、事態が改善されていないことを知り、すぐさま道路に戻った。
 三時間ほど歩き続けて、
 腹が減った
 なぜ自分は歩いているのか疑問に思った
 足が棒になるのを感じた
 引き返したいと思った
 このままでは今日中に着くのは無理だ
 行って何をする 安否確認できればそれでいいではないか
 極は立ち止まり、もう一度スマホを見る。バッテリー残量は十九%。
 極の口からため息が漏れる。
 
 ――このままのペースで書き進めていくと、回想シーンが終わる前に作品内で令和を迎えてしまうので、以降は、のちに町内のミニコミ誌に掲載された記事から抜粋する。

『大震災で使命感じる 極め湯三代目ただいま奮闘中!』
 その日の深夜、一部復旧した電車でようやく改装直後の極め湯に帰りついた極さんが目にしたのは、脱衣所の床に落ちた備品のかけらを懸命に片づけている家族の姿だった。
 翌日には、近所の商店街の人々も手伝いに現れ、一日のみ臨時休業したのち、極め湯は一週間無料で開放された。
 その賑わいを目にした極さんの心に、「六十年以上、地域の人々に支えられ、お客様を癒してきたこの銭湯を、はたして父親の代で終わらせていいのだろうか」という、使命感にも似た疑問が浮かんだ。

 かなり“演出”が施されているものの、とにかく、極は上司――になるはずだった人間に辞職願を提出し、極め湯を継ぐこととなった。
 と、一文で説明したが、それに至るまで数々の紆余曲折《うよきょくせつ》があったことはあえてここで記すまでもないだろう。
 それから八年が経った。
 仕事も楽ではないし、経営も相変わらず厳しいことに変わりないが、安岡や冨川のような常連客に支えられ、今でも極は極め湯の番頭を続けることができている。
 ただ、二人三脚で極め湯を支えてきた父親が、去年の暮れあたりから元々の持病だった腰痛が悪化し、掃除や薪の調達など大半の仕事を極が引き受けるようになった。

 ――「下町の銭湯として、自分の世代でもお客様に愛されるよう、頑張っていきたいと思います」と、極さんは力強く語った。

 と、ミニコミ誌の記事では締められていたが、現実がそう甘くないことは極自身がよく知っている。
 はたして、令和の時代も、極め湯は生き残っていけるのだろうか。
(……わかんねえ)
 湯に浸かりながらも、極の心の底にこびりついた不安は、消え去りそうにない。
「……どうした、キワメ」
 はっとして極は、うつむけていた顔を上げる。安岡に振り向くと、眉間にしわを寄せて威嚇《いかく》――ではなく、おそらく心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「……いえ、なんでもないっす」
 とっさに口角を上げて答えたが、それが「笑顔」になっているかどうかは、自分でも自信がなかった。
「……そうか」
 一呼吸おいて、安岡は、いつもの厳《いか》つい笑みを浮かべると、湯船からざぶりと出した左手で、極の頭をがしがしと撫でた。
「ま、何か困ったことがあったら、いつでも俺に言ってくれや。



 以下、令和投稿予定の完結篇に続く??



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    他言無用!(中篇)


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